私には、いい年して「怖い」ものがいくつかある。
「とげが刺さること」だったり、「足の指の爪が伸びていること」だったり、「扇風機」だったり、「エスカレーター」だったり。
それらは、すべて幼少時の母の教えによって刷り込まれた恐怖なのだ。
「とげが刺さったままにしていると、とげが心臓に到達して心臓に刺さって死ぬ」
ソファをトランポリン代わりにして遊んでいたら、
「そんなことをしていると、足の爪が(ソファの布の繊維の糸にからまって)はがれるわよ」
「回っている扇風機に触れたら、指がちぎれる」
「エスカレーターに挟まって死んだ人がいる」
事実に基づいている教えもあるにはあるけれど、こうやって「危険」と教えられたことが、不惑になっても未だに、頭の中にこびりついて、心の奥底に「恐怖」となってしみついている。最近では、羽のない扇風機などが販売されているけれど、ダイソンのCMで女の子が扇風機の輪の中に手を突っ込む様子がこわくて目をそむけてしまう。羽がないから安全だと分かっているけれど、羽の有無に関係なく「扇風機に手を突っ込む」行為そのものが、恐怖なのだ。
あと、「走っている車の窓から手を出す」ことも、「それで腕がちぎれた人がいる」と教わった。もちろん、未だに怖い。かっこいいスポーツカーに乗っている人が、片手運転(→教習所でいけません、と教わりました)をしながら、腕をだらりと窓の外に垂らしていたりするのを目撃すると、心臓がドキドキしてしまう。
この「腕がちぎれた人」の話は妙に詳しく覚えていて、酒に酔っていたそのドライバーは(今から30年以上前は、飲酒運転に対して厳しくなかった)、上機嫌で右腕を窓から出して運転していて、対向車と接触し、腕がちぎれたけれど、酔っぱらっていたからちぎれたことにも気付かずに、「なんだか、腕がスースーするな」と思ったら腕がなかった、という話であった。どんだけ、酔っぱらっていたのだろうか。そんなに酔っていて運転ができるものなのか? と、大人になった今は突っ込みどころ満載なのだが、車の運転も、酒の味を知らない子供にはパンチのある説明だった。
こんな風に、日常に潜む危険を学んできたおかげで、私は大変、用心深い大人になった。とげが刺さったら絶対に放置しないし、回っている扇風機には近寄らない。エスカレーター遊びをしている子供を見つけたら「危ないよ」と速攻で叱る。子供への思いやりではない。叱って直ちにやめさせないと、おばちゃんの心臓がもたないからだ。こっちがショック死してしまう前に、なんとか、子供をエスカレーターからひきはがす。
母の教えはともかく、その「教え方」が正しかったのかどうか、と考えると、微妙である。
トラウマ、と呼ぶには大げさだけど、私はそんなようなものを抱えて大人になっていることを考えると、複雑である。そのおかげで、たいした怪我もせずに、大人になれたのだ、と思う反面、些細なことにいちいちビクビクしてしまい変な汗をどっとかく人生を歩むことになっている。今はまだいいけれど、心臓が弱ってくる年齢になったら、エスカレーター遊びをしている子供を目撃してショック死、という事態になるかも知れない。
私自身に子供がいないから、こんな風にいつまでも、ビクビクしているのだろうとも思う。しかし、子供がいたらいたで、母からの教えを継承していた可能性も否めないのだけど。
しかし、こんなにも日常に潜む危険には敏感に反応するけれど、対人関係については、警戒心が緩いところがある。
小学生のころ、旅先で知らない人に話しかけられて、誘拐されかけたこともあった。詳しいことは、また、別の機会に書くけれど、このときも話しかけられたこと自体には警戒しているのだが、「ちゃんとした受け答えをしなければならない」という妙に律義な気持ちになってしまい、会話を交わしてしまったのだ。
世の中には、悪い人がいる。
ということも、よく、分かっているというのに。悪い人、とまではいかなくても、ずるい人がいたり、人を傷つけても平気な人がいたり、自分のことしか考えられない人がいるのも知っている。だけど、なぜだが、きちんと対応してしまう。そして、不快な目にあってしまう。それは、今も変わらない。
アンバランスだな、と我ながら思う。扇風機におびえているくらいなら、他人に対して警戒心を抱くことも大切なのではないか。しかし、「そんなヒドいことはしないだろう」という、いわゆる性善説をとってしまうのだ。
もちろん、私自身、たいそう立派な人間、というわけじゃない。誰かに不快な思いをさせたりも、たくさんしてきたし、していると思う。とはいえ、「いい人すぎる」部分があるのも事実だ。
この前書いた、仕事上の「あんまりだよね」な出来事もまた、この、人に対する警戒心の緩さが反省点でもある。お互いの利益のために動くのだから、誰にとっても、よい結果になるはずだ、と無条件で信じ込んでいた。まさか、自分が不利益を被ることになるなんて、夢にも思っていなかった。
これからは、人を見たら、扇風機だと、思おう。
涼しい風を送ってくれる。手を突っ込まない限りは安全。だけど、羽が回っているときに、指を突っ込んだら危ない。人間関係も、そういうものなのではないか、と思う。