こんにちは。栗原貴子です。
3月上旬に沖縄出張に行ったときに撮った1枚です。
東京にも桜の季節がやってきますね。
人生の扉を開く「マスターキー」を使って、新しい「扉」を開いていくには、
自分が感じている「生きにくさ」と向き合い、
そのことから湧き上がってくる感情と
上手に付き合うことが、求められます。
そのためには、自分の視点を少しずらして
「なぜ、私は今、こんな風に感情を刺激されるのだろう?」と見つめるなどして
少し、時間をかけて、自分を観察することが大切です。
私の経験のことなので、もちろん個人差はあると思いますが、
忙しくしていると、気はまぎれるけれど、
じっくり自分を観察することができず、
「紛らわし続ける」ことになってしまい、
その「ネガティブな方向で刺激された感情」を
抱え続けることになってしまうように思います。
今、多くの人たちが「生きにくさ」を感じながら、
頑張っているなあと感じます。
その理由のひとつに、
「誰もが大なり小なり、
不満や怒り、羨望といった感情を抱えていること」が
影響していると、感じています。
「こんなに恵まれているのに、幸福度の低い日本人」
といったことが、しばしば世界ランキング的なデータなどで
指摘されます。
確かに、世界の水準に照らし合わせれば、
こんなにインフラが整っていて、
教育を受ける機会を平等に持っていて、
安全で平和な国は、他にないでしょう。
けれど、
今、日本で暮らしている超高齢者から新生児が
「生まれて、生きてきた時代」に目を転じると、
そこに、大きな違いがあるのは自明です。
「母娘の確執」を取り上げると、必ず出てくるのが
「母の娘に対する嫉妬」や「母親の理想を押し付けられる」というものがあります。
母親世代が「やりたくても、できなかったこと」を
当然のごとく、涼しい顔をして「やる」娘に対して、
「いいなあ」という思いを持ってしまうがゆえに、
それが「確執」に発展する、という解説。
「なるほど、確かにそうだろう」と思います。
私の母もしばしば、「今の時代はいいわね」ということを口にします。
私自身、若い頃はその気持ち、あんまり分かりませんでしたが、
それなりに長く生きてくると、
「私が新入社員の頃は、携帯電話を持っていたのは限られた人だけだった」
「ライターになりたての頃は、原稿はファックスを送り、
OKをもらったら、フロッピーディスクを編集部に持参していた」
「一人暮らしを始めたころは100均がなかったので、
台所用品を揃えるだけで、大変、お金がかかった」
というような、「時代による違い」を自分の体験として
語れるようになってきます。
出版業界はデジタル化が進むのが遅かったようで、
私は取材先の人に「アドレスは?」と聞かれ、
『住所を『アドレス』というなんて、気取った人だわ』と
思いながら「文京区~と答えたら」
「Eメールくらいやってないと、フリーランスなんでしょ?」と
鼻で笑われて、大慌てでパソコンを買おうとしたものの、
新品のラップトップは50万円くらいすると知り、
16万円の中古を購入したという思い出もあります。
今使っている新品で買ったPCより中古のラップトップは高かった。
私よりも長く生きている方々は、
私以上に「今の時代はいいわね」と思うことがたくさんあることでしょう。
今、70代後半のある女性は「女だから」という理由で
進学をあきらめなくてはならない時代だったと語っていました。
今、80代、90代の人たちは
「親が決めた相手」と結婚するのが当たり前だった世代でもあります。
一方で、若い人たちも社会への不満を感じています。
就職氷河期世代の人で「時代が悪かった」と嘆いていた人もいます。
誰もが大なり小なり、「自分が生きてきた時代」と「他の時代」を比べて、
「いいなあ」と感じたりしていて。
「隣の家の芝生」的な感情は、誰の心の中にもあるもの、
その上で、今の時代を輪切りにした範囲でも
「隣の家の芝生」をうらやむ気持ちも持っている。
一億総中流を目指した結果、貧富の差がないように感じる日本ですが、
私の両親は裕福ではない時代と環境で育ち、
その子供である私は、恵まれた子供時代を過ごした世代ではありますが、
さらに、その子供の時代になってみると「子供の貧困」が問題視される時代になっています。
親子三世代、という時間軸で切り取ってみても、
「貧困」がキーワードとして社会的に
クローズアップされなかったのは、一世代だけなのです。
長い長い、日本の歴史の中で、
景気がよかった、一億総中流社会になったというのは
わずか20~30年間ほどのこと。
まるで、
中学時代、球技大会の決勝がかかった試合で、
対戦相手からノーマーク扱いの選手だったために、
ピッチャーもつい、油断しちゃって
まさかの逆転ホームランを放った結果、クラスを優勝へと導いた。
その功績で、その学期の間、一瞬「モテた」だけなのに、
オッサンになっても「オレ、モテるから」と
錯覚している痛い人みたいです。
※かつてのクラスメイトの皆様へ、ただの例え話です。
それが実情なのに、政治をはじめ「日本は豊かな国だ」という
幻想に捕らわれている、そんな風に感じてなりません。
もしくは、
一瞬の過去の栄光にしがみついているだけなのかも。
同時に、いまだに「精神的鎖国」が
続いているようにも感じます。
海を渡ってやってくる出来事に対して
いまだにオタオタしてしまうのは、
デング熱騒動や、インバウンドによる悲喜こもごもで
はっきりしましたが、
これぞ、
私たちが「精神的鎖国」状態で
21世紀を迎えてしまった証だと思うのです。
今、深刻な超高齢化と少子化が進んでいますが、
少子化に関しては、
挽回のチャンスは最後の人口ボリュームゾーンの
団塊ジュニア世代が「どれだけ子供を持つか」にかかっていたのに、
彼らが成人する前に男女雇用機会均等法など施行したために、
そのチャンスを逃したと思っています。
でも、
もう、団塊ジュニア世代たちも四十路を超えておりますので、
生き物としての繁殖適齢期は超えていて、
それどころか、明治大正時代の平均寿命を迎えようとしている。
(うろ覚えですけど、44歳くらいが明治大正の平均寿命です)
ここまで書いて、
「はて、私はなぜこのようなことを書いているのか?」と
自分で分からなくなってきて、
冒頭に戻って読み直してみました。
そうそう。
視点をずらしてみる、ということの一例として、
「こんな視点を持っている人もいるよ」という気持ちで、
私の視点をお伝えしたかったのでした。
これは、私が
ライターとして様々な分野の専門家に取材をして、
それぞれの道を探求してこられた方々の
深い知識の泉から
ほんのひとすくい、
教えていただいて記事にしたことの
「点」と「点」を
私個人が線で結んで、抱くようになった考えです。
間違っている! と感じる方もいらっしゃるでしょうし、
「なるほど!」と思ってくださる方もいると思います。
でも、「間違っていた」とて、
大勢に影響はしませんし、
そもそも、正しい、間違いのジャッジをすべき事柄でもないと思うのです。
ただ、
それまでとは違う「考え」「価値観」を知る
きっかけとして「そういう考え方をしている人がいるんだな」と
受け止めていただければと思った次第です。
色々な人の相談を受けてきた経験から、
「思い込みが強い人」「頑固な人」ほど、
ストレスを強く感じています。
一度、自分で「こうだ!」と信じたことを
なかなか変更できないし、「違う考えの人もいるんだな~」と
柔軟に受け止めることも難しいタイプ。
一方で、ものすごく「人の目を気にする」ので、
生きづらさを感じていることが、とても多い。
視点をずらすことで、
日々のストレスや内に秘めた怒りや
悲しみといったネガティブな感情への「感じ方」が変わってきます。
すると、
自分が持っている人生の扉を開く「マスターキー」を見つけやすくなるし、
それを手にして
どんな扉を開きたいのかが、見えてくるようになるはず。
今日も、読んでくださってありがとうございました。