昨日、私の断捨離体験と母の呪縛について書きました。
母がくれる、あらゆるモノを、なぜ、受け取るのか。
勝手にカーテンを買ってくることを許すのはなぜ?
「いらない」と言えないのはなぜなの? と思った方も多いことと思います。
これこそが、まさに、私の母の呪縛を象徴している出来事でして。
私は「お母さんに好かれるために、お母さんの言うことをきく」という生き方を
幼少の頃から選んで来ていたのでした。
言うことをきかないと、好かれない。
だから、言うことを聞く。
そうやって生きてきた習慣になんの疑問も感じずにいたのですが、「好かれるために言うことを聞く」という生き方は、人生にあまりよい影響を及ぼしません。
私の場合、この習慣は母との関係にとどまらず、ありとあらゆる関係で発揮されておりました。
顕著だったのが、異性との関係でしょう。
母との関係は、おいそれと「別れましょう」とはいかない。けれど、異性関係は「別れる」という選択肢があります。
「好かれるために言うことを聞く」を続けていると、もちろん、不満が溜まります。
一方で、相手の要求や我儘はエスカレートしていきます。なにせ、私が「好かれるために言うことを聞く」わけですからね。
すると、どうなるか。
不満が溜まりに溜まったときに。
私、ブチ切れる。そして、別れる。
コレが私の典型的なパターンとして、すっかり定着していることに気付いたわけです。
シータヒーリングによって発覚したこの悪しきパターンを解消した今、我ながら苦笑いでありますが、ホントに見事にこのパターンを繰り返してきました。
これ、私自身の愛情関係の問題だけにとどまらず、相手にも何らかの愛情のテーマに問題があって、一種の共依存関係として成立してしまっていたのだとも思う。
愛されたい、だから相手の言うことを聞く。
相手は、私の愛を確認するために、要求や我儘をエスカレートさせる。
「愛しているのなら、言うことを聞いてくれるはず」
そんな確認が必要な関係では誰も無条件の愛を実感することはできません。
愛情というテーマに、大きな課題を抱えていた私の転機となったのが、2013年8月に保護した4匹の仔猫たちでした。
仔猫を保護したのが8月19日。初めてシータヒーリングを受けたのが8月22日。
ヒーリングは前から予約を入れていたので、タイミングとしては予約をした後で仔猫を保護したわけです。
シータヒーリングを受けたことで私は「なぜ、仔猫を保護したのか」の意味を悟りました。
「生きていてくれるだけで、いい」
自分のことを二の次にして、小さい命に愛情を注ぐ経験を私は渇望していたのかも知れません。パグ犬風太を里子として迎え入れたときは、風太はもう2歳半になっていたので、「うっかりすると死んじゃうかも」という弱い生命ではありませんでした。
だけど、体重300グラムに満たない仔猫たちの命は、か弱いものです。
私のちょっとしたうっかりが命取りになる可能性もある。
振り返ると本当に大変な毎日だったけれど、不思議と心が満たされる日々でもありました。