2013年1月、シータヒーリングのセッションから帰宅した後、私は、いろんなモノを捨てまくりたい衝動に駆られました。
その衝動は「もう、夜だからやめよう」などという常識的な判断などモノともしない勢いで、そんな自分に苦笑しながら、その日はまずは「着ていない服」を捨てまくりました。
私が実家を出てから、もう20年の年月が経っております。人生の半分は実家を離れて暮らしているわけですが、実家がさほど遠くないこともあって、これまで、私の引っ越しを母は手伝ってくれていました。
その手伝いは、片付けや荷ほどきに終わらず、新居に必要な「何か」を購入する、という形も含むものでした。
ただ、その購入方法が問題だった。
勝手に「買ってしまう」のです。
「カーテン買っておいたから」
「テーブル買っておいたから」
「布団、買っておいたから」
カーテンに至っては、サイズも「勘」なので、寸足らず、幅足らず、ということもしばしば。デザイン、色も相談もないわけで。
さらに、実家で使っていたものが不要になると、持ってくる、という行為も発揮されました。
「台所用のゴミ箱なかったでしょう?」
「こういう引き出しがあると便利よ」
といった感じで、私の家にないであろうものを、車に乗せて父と一緒に持ってくるのです。
他にも、「買ったけれど、サイズが小さかった服」なども私に「あげる」とくれます。
が、ユニクロのXLが「小さい」という母。ユニクロのSを着ることができる私。
サイズ、合わなくない?
結局、趣味の合わないモノ、サイズの合わないモノが、私の家に置かれていたのです。
1月末から、私はこうしたものを捨てまくりました。
4月上旬になって、このときの「捨てまくり」が意味していたことを教えてくれたのはやましたひでこさんの『断捨離で「母の呪縛」を解く』でした。
この「母がくれたモノ」こそが、私にとっての母の呪縛であったのです。
この「母がいろいろとくれる」ことは、実家の経済的な事情によっておさまったかのように見えました。
かつてのように自由に消費ができなくなってきた母は、カーテンやテーブルといったものをわざわざ買うことをしなくなったのです。
それでも、「小さかったからあげる」と服をくれたりします。
若干ではあるけれど、実家を援助している私にとって、これはもう、イラッとくる出来事です。
この「イラッ」をぜーんぶ捨てまくった。
私が自分で買ったものの、着なかった服、流行遅れになった服なども含めて、この1日だけでゴミ袋7袋分。
弾みがついて、あれこれ捨てたり、売ったり、寄付したりしてだいぶモノが減ってきたところで、見回すと……。まだ、ある。
母が「あげる」といって持ってきたものが。
粗大ごみレベルなので、簡単に捨てられないのがしゃくに触りますが。
ふとん、小引き出しなどなど。もう、全部、捨てよう。母が勝手にくれたモノ、持ってきたモノは、全部、捨てよう! と、たった今、決意いたしました!
これから、粗大ごみを申し込みます!