首都圏では、通常モードに戻ろうとしても、難しい状況が続いています。携帯電話がつながりにくくなっている。計画停電が行われている。店に行っても品薄状態。嫌でも、「これまでの毎日とは違う」ことを実感させられます。
私の住む街は、一日中、しんと静まり返っています。往来する人も、ほとんどありません。
同時に被災地の現状が報道されるようになり、大変な状況が伝わってきます。救助を求める被災地からの声が伝わってくると、何もできないことに胸が痛みます。
もう、通常ではないのだ。
いつ、これまでの生活に戻れるのか。
「復旧」、「復興」、「復活」を願えば願うほど、「これまでの日常」を切望してしまいます。
だからこそ、思うのです。復活、復旧、復興を目指すのではなく「新しく生まれ変わろう」とする意識が大切なのではないかと。
地震の前の生活はパーフェクトだったのでしょうか?
完璧とは言えない、と思うのです。ただ、便利。そういう側面もあったのではないかと。
スーパーが夜遅くまで営業しているのは便利だったけれど、その必要性はあったのでしょうか?
携帯電話は便利だけれど、至急の用件って、そんなにたくさんあったのでしょうか?
必要を上回る便利を、私たちは当たり前のように受け取っていたのではないかと思うのです。
スーパーが「遅くまでやっている」ことで、「買い置きをする」という意識がなくなりました。携帯があるからと、待ち合わせ場所や時間を明確に決めることもしなくなりました。
そうやって便利さに慣れてしまったからこそ、今の状況がツラく、苦しく感じているのだと思うのです。
携帯電話やインターネット、SNSが安否確認などに力を発揮しました。
けれど、今、被災地にいる人は「個人的な安否確認メールをやめて」と訴えています。大量のメールを受信することで、バッテリーを消耗し、大切な連絡に使えなくなる、ということです。返事がないと、また、送られてくる……。安否を確認したい、その気持ちはよく分かるけれど、それは、被災地にいない人が「安心したい」という理由だけともいえるのです。
今、被災地にいない私たちが携帯電話に頼っている以上に、被災地では実用面だけでなく、お守りとしての意味もあるのではないでしょうか。
私たちに今、できること。それは「消極的方法」ともいえます。不要な電気を使わない、不要な連絡はしない、不要な買占めはしない、被災地に対するアプローチも、「時を待つ」しかありません。
これまでの生活を取り戻すのではなく、これから、生まれ変わる。その第一歩を踏み出している、という意識で。もう一度、今、私にできることを考えてみたいと思っています。