8月15日は正午の時報に合わせて自宅でNHKをつけて、黙祷することがこの数年、私の「きまりごと」になっています。
今年ももちろん、黙祷をささげました。
すっかり便利になった現代では、もはや戦争のことなど「なかったかのように」便利で平和な日々が続いています。私も、そんな日常に慣れてしまったひとりですが、この便利さや当たり前の平和に慣れたことで、人としての大切な「何か」を見失っているような気もするのです。
インターネットの普及によって「考えること」をしなくなりました。分からないことがあったら、すぐに「ググればよい」のですから、「なぜだろう?」「どうしてだろう?」といちいち、頭を使いません。正解、ないしは、正解に近い回答をすぐに得られる現代では、夢や希望も抱きにくいのではないか、と思うのです。
前々回、前回の記事で書きましたが、私はフリーランスのライターになるにあたり、かなり妄想に近い発想で行動し、業界に近づきました。正解を知らなかったから、「そうすれば道が開けるに違いない」と信じ切ることができたのです。
携帯電話があって、スマホがあって、メールやLINEが存在する今。
誰にも会わずに内省する時間がどんどん、減ってきているように思います。
簡便なコミュニケーションがすぐに手に入ってしまうからこそ生まれる、悶々とした思いから「既読スルー」などという言葉を生み出しています。
今年の8月15日は、現代を生きる私に「芯のもろさ」を実感させました。
私は生まれたときから家に電話がありましたが、携帯電話が普及したのは社会人になってからで、携帯電話でメールができるようになったのは、もう、けっこういい大人になっておりました。つまり、スマホなどなくても生活してきた年月の方が遙かに長いというのに。
あっという間に、メールやLINEが生活に進入することを許し、その便利さを享受する一方で、返事が来る来ないで人間関係を推し量る狭い心までも、取り入れているのです。そんなことをグズグズと考えることができるのは、平和な世の中だからなのですが。
メールもLINEも大変、便利なものですし、その存在自体はいいのです。技術が進歩したということですし。ただ、それを使う内に、心がどんどん豊かでなくなっていくような気がしてならないのです。
「願いは絶対に叶う、実現できる」
そう、強く信じるためには、強い心が必要です。けれども、心の豊かさを育めなくては、その強さを保つことは難しくて。それが、私の「現実化の力」を弱めた一因なのではないか、と気付いたのでした。
では、平和で便利になった今の時代に、どうしたら強くて豊かな心を育めるのか。
それを考えていきたいと思っています。
ただ、今は。
平和で便利で安全であることへの、感謝の気持ち、恵まれているという実感を忘れずにいることが大切なのだということを漠然と感じています。