こんにちは。栗原貴子です。
少し、ご無沙汰の投稿となりました。
いろいろと思いを巡らせておりました。
今日は、人生の扉を開く「マスターキー」を見つけるために
クリアしておきたいこと 3)固定観念の枠を外す の
【その1】を書きますね。
固定観念とはなんぞや? をツラツラと考えていたところ、
ものすごく根底から突き詰めていくことが
必要だなあと感じた次第です。
本屋さんに行くと、ベストセラー書
『フランス人は10着しか服を持たない』(大和書房)のほか、
フランスのライフスタイルを説いた類書がコーナーになっています。
『フランス人は10着しか~』は帯に60万部と書いてあったので
大ベストセラーです。
いかに日本人が「服はあるのに、着るものがない!」問題に苦悩し、
服を始め、持ち物が多いことにストレスを覚え、
「こんな暮らしはエレガントじゃないわ!」と
感じているのかを、この本のヒットが物語っています。
同時に、本来はシンプルな暮らしをしていた
日本人のDNAが刺激されてのベストセラーなのではないか、と
想像しています。
日本人も着物で暮らしていた時代は、
着るものの所有数は着物や帯を含めても
10枚程度だったのではないかと思うからです。
洋装になっても、しばらくは
着物時代の感覚で衣服と接していたであろう、日本人。
「一張羅」「晴着」って言葉もありますしね。
戦後しばらくモノがない時代が続きましたし、
衣服の値段も昭和のほうが平成の今よりも高かった。
「服はあるのに、着るものがない」という
超贅沢な問題に
私たちが直面しはじめたのは、
この20年くらいのことだと思うのです。
なので、
「昭和40年ごろの生活を思い出せば、
10着しか服を持たないシンプルライフですよ」なのですけれど。
どうして「日本流のシンプルライフ」には憧れないのか。
それは、
貧乏な記憶やイメージと結びついているから、なのでしょう。
欲しいモノがあっても、簡単に買うことはできなかったため、
当時は、熟考を重ねて購入したり、
考えた結果、断念してきたことでしょう。
けれど、その時代を生きていた人たちにとっては、
「よく考えて買う」ではなく、
「欲しいものをたくさん、ガマンした」という
ネガティブな記憶のほうが強く残っているのではないか。
1ドル360円時代が長かったので、
舶来品だ、というだけで高級で「ありがたい代物」。
その感覚があるから、
舶来のカルチャーやモノを、いまだについつい、ありがたがってしまう。
今、70歳前後の方とお話していると
そんな風に感じます。
ということは、
戦後の日本の礎は、こうした価値観がベースに
構築されたモノ、とも言えると思うのです。
そもそも、人はネガティブな記憶のほうが残りやすいそうなので、
日本の近代史を振り返れば致し方ない、のですけどね。
例えば「丁寧な暮らし」みたいなことを言うと、
「こだわりの食器や雑貨に囲まれた生活」みたいなイメージになっています。
でも、
もともとは、道具や食材を丁寧に
大切に使うことが出発点だったように記憶しています。
丁寧な下ごしらえで、料理の味が変わります
とか
丁寧に扱ってお手入れをすれば、こんなに長持ち、とか。
決してモノに「囲まれて」はいない。
けれど、「モノ」がなくて悲しかったり、困ったり、
ツラかったりした記憶があるから。
どうしても「囲まれたい」と思ってしまう。
話はちょっとズレますが、
「3歳から幼稚園に入る」ということに対して
「かわいそう」という高齢ご婦人がいまも存在します。
私自身が3歳から幼稚園に通いまして、
「むしろ、楽しかったですよ」といっても、
高齢のご婦人は「でも~」とおっしゃる。
経験者が「3歳からの幼稚園入園は楽しかった」と言っているのに、
はて、なんでだろう? と考えましたところ。
専業主婦、というものが高齢ご婦人にとって
豊かさやシアワセの象徴であり、憧れでした。
彼女たちが幼少時の親は、共稼ぎないしは、
母子家庭も少なくなかった時代だからです。
小さい子供の面倒をみることができるのは、
専業主婦という「豊かさやシアワセの象徴」とセットになっていて、
貧しさやガマンといった
ネガティブな記憶とも
「豊かさやシアワセの象徴」は対になっているので、
より、いっそう「かわいそうに」と感じるのでしょう。
そう。
それは、自分自身の幼少の頃の記憶です。
そして、政治家のオジサン、オジイサンたちも高齢なわけで。
専業主婦は豊かさとシアワセの象徴世代であり、
その幻想を引きずっている世代でもある。
「共稼ぎじゃないと子供を育てられない」という現実は、
ニッポンは貧しい国です! と言っているような気分になるのではないか。
だから、
保育園が足りません、に対して本腰を入れようとしないし、
育児や介護といったケアワークについて
『家庭内で解決できるだろ? だってニッポンは豊かなのだから』
と思っているのではないでしょうか。
とくに、総理大臣が
あらゆる統計データを聞かされても、
「まったく脳に届いてない」という表情をされるのを見るたびに。
いまだに、高度経済成長期の再現をしようと
躍起になっている様子を見るにつれ、
そんな風に感じるのは、私だけではないでしょう。
固定観念に強く縛られると、柔軟な発想ができなくなり、
結果、
選択肢を狭めることになります。
固定観念に縛られていると、
多様性を受け入れることができなくなって、
巡り巡って、自分の首を絞めることになります。
固定観念の呪縛に苦しんでいるのは、
私たち個人だけでなく、もはや日本という国レベル。
個人レベルではフランス人に学ぼうとしているけれど、
国家レベルで学ぶ気はないという、残念な状態のように感じます。
ちなみに、フランスは少子化を挽回した国でもあり、
その点でもお手本になると思うのですが……。
と、思い浮かぶままに書きましたが……。
「固定観念の枠を外す」ためには、
まずは「自分は固定観念に縛られていやしないか?」という
前提に立つことが必要です。
とくに、
強い信念があるのに、
強く願っていることがあるのに、
ちっとも叶わなくてシアワセじゃない、と感じているならば。
その信念や願いそのものが
固定観念によって生まれたものである可能性が高いのではないか。
長くなりましたので、続きはまた次回に!
今日も読んでくださりありがとうございました。