こんにちは。栗原貴子です。
前回の記事「え?あれから28年!高校のクラス会!」から、
またしてもご無沙汰してしまいましたが……。
今年に入ってから、再開お稽古として通い始めたお習字に行ったり、
遠方のお友達に会ったりしておりました。
先日のお習字
高校のクラス会から早3週間が経とうとしておりますが、
LINEのグループトークは今も、ちょいちょい盛り上がっていて
『みんな、楽しかったんだな~』とほのぼのとした気持ちで
眺めたり、時々、ぽつりと参加したりしております。
そんなLINEトークを眺めていて感じたのは、
「あのクラスには居心地の良い人間関係があったな~」ということでした。
それぞれの性格とか得意不得意なこととか、
いわゆる「個性」という一言でくくってしまうと、味気ないのだけど、
「あいつは、そういうヤツだよな」ってことを、
お互いに認め合っていて。
でも、クラスで団結する必要が出てくるとき、
たとえば、文化祭といった催しの時には
「みんなでやろう!」というムードに自然となっていくことができた。
それって、大人になった今、
「ものすごーく、稀有なこと」だと思うのです。
ビジネスの現場ではマネジメントとかリーダーシップとか、
チームワークということを、
「どうしたらうまくいくか」を考えていくことが多いものです。
でも、そんな難しいことなど知らない15歳、16歳のころに
私たちは自然とやっていたんだな、って思うと、
「おりこうさんだったな~」とシミジミします。
もちろん、売り上げが~~~みたいなことを考えずにいられたから、
というのもあったのでしょうけれど。
私はこの10年の間に、小学校、中学校の同窓会の機会にも恵まれて、
再会を経験しているのですが、
小中高と公立の学校でした。
つまり、一貫校というわけではないので、
校風もメンバーもそれぞれ、なのだけど、
「いわゆる個性」を尊重したうえで、
「ここぞ!」というときには団結力を発揮する、ということは
小中高、すべてのクラスメイトたちに共通しているなあ、と気が付きました。
時代、でくくるのは語弊があるかもしれないけれど、
団塊ジュニア世代で人数なんか、今の子供の倍もいて
おおらか、というか、おおざっぱでした。
例えば、
小学校の課外授業で生徒が行方不明になっても、110番通報もせずに
「一度、学校に戻りましょう」と戻ってみたら、
行方不明になっていた子が先に学校に戻っていて、
「みんなとはぐれたからひとりで帰ってきた」という。
今の時代だったら、確実に大騒ぎだったよね、って出来事が
起こっておりました。
「個性を尊重しよう」みたいな教育方針もない時代だったので、
「個性を尊重しよう」という意識もなかったし、
でも、結果的に、そういう風に子供たちは過ごしていたのでした。
そして、この数週間の間に、私は
「居心地の良い人間関係」は世代に関係なく、
大人になってからも見つけることができるんだな、と思ったのです。
今の世には二つの世界観が交錯していて、
ひとつは「○○の法則」とか「○○論」みたいな
「レール」を敷き詰めて、そこに自分を当てはめていきながら、
「成功」を目指しましょうというもの。
もう一つは、自分を軸に「何ができるのだろう?」を考えて
道を作っていきましょう、というもの。
この二つの世界観は良し悪しではなくて、
向き不向きが問われるものでもあります。
前者はレールがあるから
指針や目安、進むべき道がはっきりしているから、
わかりやすくていい。
けれど、性格的に不向きな人もいて、
そういう人にとっては居心地が悪い世界なのだと思ったのでした。
再開お稽古のお習字の先生は「きれいな字を書く」ことよりも
文字で表現する、という居心地の良いお稽古をしてくださるのです。
しかしです。
私、わりと「セオリー」に当てはめたお習字をやっていたので、
自由に伸び伸びとした線を書く、というのが
どういうことなのか、
いまいち腑に落ちなかったのです。
けれど、クラス会の後のお稽古で
「先生!分かりました!」と突然、そういう線が
書けるようになったのでした。
とはいえ、私は「セオリー」のお習字を学んだことで
基本を身に着けることができたと思うのです。
レールがあるからこそ、できることがあって。
でも、そこから解放されて初めて、できることもある。
「レール」と「自分の軸」をうまくバランスをとることが
大切なんだな~と思うのです。
「自分の軸」が「レール」に沿っているときもあれば、
大きく外れていることもあって。
そのことを意識しながら生きていくことができれば、
幸せな未来が創造できるのではないかと、思ったのでした。